

前回の記事では、AI時代に本当に価値を持つのは、その答えを疑い、見極め、新しい問いへとつなげる力ではないか、ということを考えていますが、
では、その力を、私たちはどのように育んでいけばよいのでしょうか。
すべての卵を、一つの籠に盛らない
グローバルで出会う方々は、すでに働き方を変え始めています。
定型的な作業はAIに委ね、空いた時間を、新しい問いを立て、これまで踏み込まなかった領域へ手を伸ばすことに使う。仕事の輪郭が、静かに描き直されているのです。
AIの恩恵を受け、多くの仕事の質が均一化されてくると、まず第一に、圧倒的なスピード力でプロトタイピングをし続けてアウトプットをしていくことによって差がつきます。
しかし、その差もいずれ多くの人が習得してくれば、薄れていくでしょう。
そうなっていくとき、そのひとつの専門性にすべてを賭けても、テクノロジーとの競争になり、そこには差が生まれにくい可能性さえ生まれてきます。
以前は深さか広さ、いずれかのスタイルで、それぞれが自分の仕事の腕を磨いていく時代でしたが、
今は、その両方を一人の人が実現できてしまう時代です。
だからこそ、創造性や新しいものを生み出すためにも、あらゆるものを分散させてみる。
その異なるものの掛け合わせから、次なる新しいものが生まれてくるのではないでしょうか。
遊びは、文化より古い
では、その掛け合わせの素は、どこにあるのでしょうか。
社会の動きを眺めていても、何をして良いのかわからないものです。
そんな現代の私たちに、ヒントをくれるのが、歴史家ヨハン・ホイジンガが1938年に著した『ホモ・ルーデンス』です。
人間を「知性の人(ホモ・サピエンス)」と定義する前に、
遊ぶ人(ホモ・ルーデンス)であると人提唱しました。
法律も、芸術も、学問も、そして戦争さえも。人類が築いたあらゆる文化は、生活の必要から生まれたのではなく、遊びの中から、遊びの精神をまとって生まれた、と。
近代以降の社会が生産性や効率を追い求めるあまり、このような遊びの精神が失われつつあると批判しています。
「遊びは文化より古い」。
それが本書の冒頭に置かれた命題です。
彼のいう遊びとは、暇つぶしのことではありません。
自ら進んで参加する自由な行為であり、
日常から切り離された時間と空間の中で営まれ、
それ自体の秩序と緊張と楽しさを持つもの。
そして何より、何の役にも立たない、非生産的な活動であること。
生産性や利益、損得などを考えていては、遊びではないのです。
子どもが遊びを通じて世界とそのルールを覚えていくように、
遊びとは、知的な探求心と創造性の、最も古い源泉なのです。
テクノロジーの進化し続ける時代に、人が進化する場所
そう考えると、逆説が見えてきます。「これは何の役に立つのか」と構えた瞬間、遊びは遊びでなくなり、そこから生まれるはずだった新しいものも、生まれなくなる。私たちがつい問うてしまう、その問いこそが、創造の芽を摘んでしまっているのかもしれません。
組織が変化の伴走者を求め、個人が専門の一点賭けを解いていく。
あらゆる作業をテクノロジーが引き受けていくこれからの時代にこそ、人間の次の進化は、遊びの側から訪れるのではないでしょうか。
道具を手にして没頭すること。
身軽にあらゆる場所に移動し、日常を離れた場所から世界を眺めること。
一見、最も無駄に見えるそうした時間の中にこそ、次の掛け合わせの種は眠っているのかもしれません。
昨年は、作曲と映像制作に没頭していました。
これまで一度も携わったことがない分野ですが、道具がある現代では、夢中になって取り組んでいくことにより、初心者でも1日に100曲ほどの作曲までできてしまうのです。
映像作品も、当初は、それがただただ面白く、夢中になって作っていましたが、思いのほか自身の仕事の上でも大いに役立ち、お客様や周囲の方々にも大変喜ばれ、かつそれが次のアイディアにも繋がっていきました。
未来予測や社会から求められる市場性なども重要なことですが、そこにばかり意識をしていると、皆が同じ方向に向かうので、オリジナリティに欠け、多様性が少ない社会になってしまう。
そのため、まず、自分が何に夢中になれるか。没頭できる遊びとは何かを考えてみる。
テクノロジーが賢くなるほどに、私たちに残された最も贅沢で、最も人間らしい仕事は、遊ぶことなのかもしれません。
参考文献
- Huizinga, J. (1938). Homo Ludens: A Study of the Play-Element in Culture.